断末
36 断末
きらきらと、光る陽光が心の断片にさえなる。
結局、男からのコールがないまま、週末の夕暮れがやってきた。
ケイを待ち構えていたはずのバンでさえ、今日は素通りしていった。
これでいい。
当たり前の日常が戻ってきたとは、もう思えなかった。
押し潰れそうな寂しさがある、
なんのために日々一日を繰り返しているのだろう。
はじめて打たれた頬が痛いとさえ感じる。
このまま、
真っ直ぐ歩けば、言葉もなく、押し潰してくれそうな鉄の塊たち。
そっと、凄惨なまでに死ぬことができたら、少しはユリを見返せるだろうか。
踏み出す一歩、
バンと入れ替わりに一台の車が停まった。
無機質な、スモークガラスの側面、
思わず息を飲んだ。
あるだけの携帯電話が鳴ることはない、自分の存在など、改めて、どこにもないのだと思えた。
スモークガラスに映る姿が滑稽にさえも思える、もっと、ユリ以上の美貌があったならば、すべての幸せが訪れていたのかも知れない。
「ケイ」
イニシャルの頭文字、k。
それが私の名前だ。
もっと今いじょうの自信が欲しい。
そこには、プライベートを彷彿させるラフな姿がある。
男はにわかに、招待状を差し出した。
錯覚
37 錯覚
ルームミラー越しの会話にさえも感じる、
こんなに近くて遠い距離。
纏わりつくようなアスファルトの熱気が走り急ぐたびに、冷気を帯びてくるようだ。
行き先は男にしかわからない、
近づく万年雪の山系がケイを幻想的なまでに包み込んでくる。
思わず腕時計を覗いた、
頂にかかる陽光が今日の終わりをときめかせる。
招待状に書かれた名前はここだ、
男は扉を叩くと、ケイを預け走り去っていった。
都会からここまで四時間にも満たない距離だ、一人の女が親しげに両手を広げた。
海外を思わせる出迎えにケイは思わず、たじろいだ。
初老にしては衰えを感じさえない強い気品さえもある、怜悧な顔立ちだ。
思わず、あの男の母親かと訝った。
「昔はこれでも綺麗だったのよ」
案内された席で老婆が名を告げることはない、
最終の駅の時刻が男が告げた時間でもあった。
ここから先の向こうに、けして開いてはいけない扉がある。
その扉を開く勇気がなければ「帰ったほうがいい」とだけ言った。
この先の向こう、
あの場所で、できない大掛かりな仕掛けがあるとでも言いたいのだろう。
とても含みのある言葉だと思った。
ケイは出された晩餐をただ漠然と咀嚼する、けして迷いがない訳ではない。
「あなたも一緒なのね」
頷きが関心にも変わる、
老婆と向かい合う時間が、もう一人の自分と向かい合っているような不思議な錯覚さえも覚える。
「また、お会いできますよね」
ケイは立ち上がると、最後にようやく口を開いた。
対等
38 対等
浅はかな思い上がりは月日を経とうと変わりはしない。
ケイがここに辿り着いたときには一幕が終わりを告げていた。
舞台の袖で、傷ついた身体にガウンを羽織らせる男の姿が眼についた。
女がなにかを呟き、男が頷き返してもいる。
舞台のセットを見る限り、なにが行われていたのか、やすやすと想像できた。
ケイは男が案内する席に座った。
ここには時間がある、
先急ごうとするケイを嗜めるように手渡されたものを改めて握り締めた。
告げられた時間よりも早く到着した男に、けして先急がされた訳ではない。
車から降りる気配のない男に歩みよったのは誰でもないケイ自身であった。
二人からけして眼を逸らすとができないケイは二人を見続ける、
男がチェリー酒を運んだことさえ気づかないでいた。
「対等だよ、いつだって」
男の声に驚き、思わず振り向いた。
「対等?」
呟き返さずにはいられない、不思議な響きがそこにはあった。
「カナに会うといい」
男が時間を確認している、
今から始まる光景は逆に凄惨なものだ。
木箱から顔だけを出した女が、ステージに運び込まれてきた。
頬張るにも無理なほどに大きな林檎を口のなかに押し込まれようとしている。
気が狂ったように弁明を続ける女の声が無常にもステージ一帯を響かせていた。
「くるみ割り人形さ」
堕胎
39 堕胎
楽曲を開くようなパンフだとさえ思う。
テーブルに開かれた文字が対極なまでに浮き立つように見える。
有無言わせぬ速さだ。
鈍器で後頭部を打たれた女の悲鳴が聞こえない。
微かに響く林檎をかじる音。
ケイは思わず眼を見開いた、
下顎を荒々しく揺さぶる影だけがある。
形相が徐々に変わり果てていった。
「似ているだろう?」
閉じることができくなくなった唇が裂け切らんばかりに押し開かれていく。
「言葉を変えるだけで、おとぎ話しにもなる。史実が形を変えて狼にもなった」
醜いと言うだけで、ひとは――
「子供の頃によく聞かされた話だ」
赤い頭巾の子供が腹を裂き助け出される。
男は短く笑った。
「まるで堕胎だ」
生と死は同価値にある。
「死が光を指すなら、生は闇を惜しむものだ」
ひとは想い出を語りたがる。
過ぎた日々になにがあると言うのだろうか、
「すがりたい思いが純真に化けた」
まるで種明かしをするような口振りだ、
小ばかにしたような見透かした眼だけがある。
男は静かに微笑んだ、
まるでなにかを思い返すような眼差しだ。
乾いた眼が震撼するほどに、虚空の彼方を見つめて止まない。


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